ルート・ユーズネット45年の歩み
創業者で現会長の井上政彦の言葉でお届けします。
創業からの道のりを振り返りました。
「立志」
終戦後の時代、子どもだった自分は、自分が漕ぐ自転車を車が追い越していくのが悔しくて、車を売る人になろうと思いました。
それが車販売の仕事に就くきっかけとなりました。
夢が叶い、新車の販売営業マンとして実績を積むことになりました。
新人1年目で、トヨタカローラ愛豊 年間優秀セールスマン 第1位、トヨタ自動車 年間優秀セールスマン賞を受賞しました。
販売の力を認められ、中古車販売会社の役員として迎えられましたが、方針の違いから「自分で会社を作るぞ」と決意したのです。
1976(昭和51)年 創業 〜1977(昭和52)年 全国展開
日本初の「個人間売買」の構想で、独立。
「ルート豊田」を創業しました。
日本初の個人間売買仲介ネットワーク構想を表明し、新聞でも騒がれたルートシステムは、あっという間に全国各地25社にまで広がりました。
ルートを愛知県一、いや日本一にしてみせると思っていました。
日本で初めて車の個人間売買を始めたことで、地元の多くの同業者から反感を買い、業務を阻害する行動を受け続けました。
そして経営の足元が固まらないままの全国展開となり、負債を抱えて破綻しました。
挫折
1978(昭和53)年1月
気づいたときには、もう手遅れとなっていました。
多額の負債が積もり、当時の自分には大きすぎて、どうにもならないと思い、途方に暮れました。
そして、死に場所を探して、矢作川沿いを車で走りました。
失敗の主な原因は、
・自分一人の力を過信して創業
・協力者 皆無、計画 皆無
・時代とのミスマッチ
中古車の個人間売買に取り組んだ時期が超尚早でした。
起死回生
1978(昭和53)年 3月 再出発
矢作川沿いを走り、死場所を決めて、死のうとしていたときに、「お父さん!」と呼ぶ子供の声がして、思い留まりました。
もう死んだも同然。
それなら死んだ気になってやってみればいい、と自分に言い聞かせ、なんとか再出発したのです。
低価格車販売の始まり
債権者さえ持って行かなかった二台のポンコツを磨きに磨いて、お客様を待ちました。
1ヶ月後に売れて、売ったお金を握りしめ、また2台仕入れて、磨きました。
そうやって、少しずつ、少しずつ、台数を増やしてお客様を増やし、売上を増やしていったのです。
お客様からもらった犬に助けられました。
「ナッキー」と名付けました。
営業販売・整備・事務、すべて自分ひとりで行っていましたので、自分が展示場にいるときは、お客様が来たことや、電話が鳴ったことを吠えて知らせてくれるようにしつけました。
自分の食費もままならなかったので、ナッキーの食料は、喫茶店や食堂の残飯をもらいに行って、何とかしのいでいました。
大晦日の夜、寒空の下、一人で車の整備をしていると、除夜の鐘が鳴りました。
情けなくて、涙が溢れて仕方なかったことが思い出されます。
同業者からは「乞食」と呼ばれていました。
生きていくために資金的にできることからと始めた、低価格中古車販売でしたが、思わぬ新しいマーケットが発見できたことに加え、折り込み広告戦略が功を奏し、急成長できました。
魂の販売
1983(昭和58)年 7周年 月間販売台数100台を達成
徹底的な低価格、圧倒的な台数を目指しました。
1台1台魂を込めるように販売していました。
1台1台は何百台にもなっていきました。
「1日1万円値下げ」の、国道248沿いの展示で話題になり、地域では多くの人に知っていただける存在になりました。
月間100台という大きな目標を達成し、そして遂に、負債を完済することができました。
1986(昭和61)年 10周年
「10えん10まん10周年」というイベント名、キャッチコピーで大々的に広告宣伝し、集客も大成功で、徹底的な低価格、圧倒的な台数を追求し続けていきました。
この頃、社員・スタッフは10人ほどいましたが、私は非常に厳しく接していました。
特に営業スタッフには毎日叱り、怒鳴っていました。
お客様への細かい配慮ができていないときに、私は容赦なく叱っていました。
「社長がそこにいるという空気だけで、肌が切れると思うくらい厳しかった」と当時のスタッフが昔を振り返って言っていたほどです。
スタッフの中には、怯えている者もいましたが、お客様には常時ハキハキ、キビキビした対応ができ、評価を得ていました。
躍進
1986(昭和61)年 岡崎ルートオープン
会社はそうやって成長していき、1店舗では手狭になり、多店舗化で成長しようと岡崎店を出店しました(現在のユーズネット岡崎)。
念願の2号店、多店舗展開への挑戦の始まりでした。
結果は、1店舗時代より売上が低迷し、1店舗時代の天国と2店舗時代の地獄を味わうこととなりました。
その後、苦難の15年間でした。
失敗の主な原因は・・・
・両店とも社長が居れば売れて、居なければ売れない・・・責任者が育っていませんでした。
・社員の教育がなおざりとなっていました。
きつく叱って売らせようとしていました。
・私の叱り方がきつく、社員の定着率低下を招き、結果お客様離れが起きました。
1992(平成4)年 豊田そごうの駐車場で「お出かけセール」スタート
苦難の中でも、ルートの知名度を上げ、販売につなげるため、新しいことに挑戦し続けました。
豊田そごうの店長にお願いして、駐車場をお借りし「お出かけセール」を開催し、地元で話題になりました。
これは後に、豊田スタジアムでの「軽大会」に発展しました。
1996(平成8)年 20周年 お客様ご招待ハワイ旅行を敢行
苦難が続く中ではありましたが、お客様ご招待旅行を20周年までに3度行いました。
・1993(平成5)年 グアムツアー
・1995(平成7)年 サイパンツアー
そして1996(平成8)年に20周年を迎え、お客様をハワイ旅行にご招待しました。
より深いファンになっていただくためと、自分がディーラーのセールスマン時代の賞でハワイ旅行を獲得し行ったときの感動と思い入れがあったためです。
ご招待したお客様にはとても喜んでいただけました。
その時すでに、多店舗化を分社化という方法で展開することを考えており、そのハワイ旅行での20周年記念パーティーで、お客様・スタッフの前で発表しました。
1998(平成10)年 ユーズネット旗揚げ
2店舗目の苦労から、1つの店舗には必ず1人以上の「本物の責任者」が必要と判断しました。
豊田と周辺に集中して出店し、店舗ごと分社して1店舗1社長で店舗展開をすることにしました。
各分社は社名とは別に店舗名を「ユーズネット」としました。
中古車(ユーズドカー)情報ネットワークが由来で、「ユーズネット」です。
英字は中古車の「Use」ではなく「You's」。
これは、主体がお客様(あなたの)であり、人と人をつなぐ意味を込めています。
この「ユーズネット」の、分社化による多店舗展開で、スタッフにまだ器はなくとも、社長になることで能力、器は後からできてくると思っていました。
そして、それはほぼ思い通りの結果となりました。
うまくいった要因・・・
・お客様が各店で社長に付いて増えていきました。
・スタッフの募集は「社長候補募集」とうたい、チャレンジ精神旺盛な人材を集めることができました。
・分社長は、「社長」であるため辞めることはなく、人の安定につながりお客様も安定しました。
以来、多店舗展開でお客様の喜びを拡げることを目指していきました。
発展
2006(平成18)年 30周年 マレーシア植林「ユーズネットの森」
創業30周年を前に、2003年から、記念事業としてマレーシアでの植林活動を行いました。
お客様と共に森を育て自然を残すことで、この地球上にお客様の足跡とルート・ユーズネットの足跡を残そうと、3年間で6回、述べ180名のお客様、関係の方々、スタッフでマレーシアを訪れました。
植林した苗木は約3,000本になりました。
また、この植林事業を通して、豊田市の九久平小学校、上鷹見小学校の子どもたちとマレーシアのクバンカウ小学校、第二ドリアンマス小学校の子どもたちが、緑を通じて互いに交流を図ることもできました。
植林活動は2006年のファイナルツアーをもって終了しましたが、2007年9月12日〜16日、植えた緑と子どもたちに会いに、その成長した姿に再会できることを楽しみにマレーシアへ行くこともできました。
2007(平成19)年 豊田スタジアムで「軽大会」をスタート
かつて、「中古車屋」だったルート・ユーズネットは、お客様のカーライフに寄り添う「購買代理店」として、お客様の人生のステージに合った車を提供する会社として成長することができました。
新車・中古車のオールメーカーを取り扱う「購買代理店」となったのです。
その中で、通常、お客様が軽自動車を選ぶ時は、各メーカーのディーラーを見て回らなければならないのを、ユーズネットが逆に車を集めて展示したらどうかと思いつきました。
お客様の利便を考え、オールメーカーの軽自動車が一堂に集う「軽大会」です。
豊田スタジアムがその絶好の場所だと考え、「豊田スタジアムでイベントを開催できる会社」になるべく、スタジアムのスポンサー企業になり、開催が実現しました。
軽大会は、2019年までに30回開催し、毎回1,500~5,000人もの方に、見比べ・乗り比べしていただき、好評をいただいています。
2008(平成20)年 軽キャンピングカー「ちょいCam」を開発、翌年 販売スタート
同年のリーマンショックでは、ユーズネットも大きな打撃を受けましたが、世の中の価値観の転換に合わせて、新事業を始め、立ち上がりました。
それが、キャンピングカーの開発・販売でした。
かつて車は移動の手段であり、その中で車種選びという楽しみがありました。
しかし、世の中の価値観の転換で、「ゆとり」を持つこと、家族や自分のために時間を使うことが尊ばれるようになり、車は趣味を楽しむための相棒として、キャンピングカーが少しずつ注目され始めていました。
「いつもあなたと車の間に。」をモットーに歩んでいたユーズネットとして、「もっと気軽にキャンピングカーを」という思いから、軽キャンピングカーの開発を始めたのです。
「ちょいと気軽な軽キャンパー」という意味を込めて、「ちょいCam」と名付けました。
私自身が長年登山を楽しむ中で、下山後に車のシートを倒して仮眠するという経験をしていました。
まさに「車中泊ができたらいい」というものです。
車を走らせた先に一番の楽しみが待っている。
1人であるいは2人で趣味を楽しむ方が到着後、車に求める最大の目的は「横になって気持ちよく寝られるか」なんだと、お客様の声からも確信し、そこにポイントを絞って発売後も改良を重ねていきました。
かつて創業の頃、同業他社といえば、何人もが当社の業務を阻害する行動に出て、まさに“敵“でしたが、時代は変わり、ちょいCamで共存共栄するパートナーになりました。
ちょいCam販売の販売加盟店を募り、全国の同業他社にちょいCamを販売していただくという仕組みを作ったのです。
2020年現在、販売店は、九州から北海道まで120店を超えました。
全国各地でキャンピングカーイベントに出展し、好評をいただけるようになりました。
苦難からの再出発
2016(平成28)年 店舗の統廃合
「ちょいCam」は全国に拡がり、「軽大会」で地域においては名の知れる会社にもなりましたが、ユーズネット本部のトップである私の器不足から、分社長の甘えも加わり、店舗毎の経営に大きなばらつきが生まれ出していました。
生産性の高い分社と低い赤字の分社ができ、資金に関して苦慮することがトップの第一の仕事となっていきました。
そのために指導、統率やグループのビジョンを語ることがなくなってしまいましたが、それでも付いてきてくれる社員が何人もいて、必ず生き残ることを誓い、店舗の統廃合を行いました。
2018(平成30)年 二代目の誕生
そしてすべての店舗を、本部である株式会社ルートの直営店舗として、一丸となれる体制づくりを始めました。
2026年には、創業50周年を迎えます。
50年、100年企業を見据えて、後継として歩んできた長女、井上美鹿に代表を引き継ぎ、100年企業を目指します。